友人の栗城史多君がエベレスト登頂を断念11.26
友人の栗城史多君が8月26日、日本を出発し、10月上旬を目標に秋季エベレスト西稜・無酸素単独登頂に挑戦していました。しかし、10月18 日、7500m付近で暴風のため断念し10月20日下山し、10月21日、重度の凍傷を負っていることから、カトマンズの病院に収容されました。彼にとっては4度目の挑戦だが、エベレストは今回も受け入れませんでした。しかも、両手両足の指、そして鼻に受けた凍傷がひどく、左手の親指と数本の指は切断しなければならない状況らしい。厳しい冒険を自ら求めた結果だけに、過酷な結果も受け入れるしかないが、彼は無事に生きて帰ってきた。それだけで、素晴らしい。 カトマンズに入院中の栗城君(ブログより) さて、インターネット上では、栗城君に対する誹謗中傷が多く見受けられます。パソコンの画面だけを見て批判する前に、現場にいる当人の厳しい現実をしっかり考えてほしいものです。冒険の厳しさは、現実に死と隣り合わせに生きていることを実感した人でなければ、理解できないのかもしれません。「冒険は、まず生きて帰る事。それを成し遂げただけで賞賛に値する」私は彼を応援し続けたいと思っています。「青春とは自己の可能性に挑戦してみようとする冒険心。夢を実現するために大切なことは、第一歩を踏み出す小さな勇気。」私が25歳のとき、「NHK青年の主張」で述べた言葉です。青春を生きる彼の勇気と行動に、敬意を表したいと思います。 冒険家として、栗城君にとって「エベレスト無酸素単独登頂」は、最後の挑戦と考えているのでしょうか。いつまでも山岳冒険家であり続けることは、年齢的にも社会的にも難しい限界があり、「いつ引退するか」という難しい選択をいずれしなければならないときが、いずれ来ると思います。私は23歳のとき、手作りヨットによる単独太平洋横断に挑戦しましたが、一度の挑戦で海洋冒険家としての活動を終えました。その後、建築家、教育者、地方政治家へと舞台を変えて、私なりの挑戦し続けてきたつもりです。冒険は、山や海だけが舞台ではありません。見方を変えれば、海や山の厳しい自然よりも、社会の荒波の方が高いようにも感じます。そう思えば、誰もが冒険家です。 私も実は、26歳のとき、再び新たな冒険に挑戦しようと考えました。当時、相談した森村桂(「天国に一番近い島」の著者)さんから「岡村さんは1回でいいじゃないの。2度目をやってしまうと、堀江謙一さんや植村直己さんのようになってしまうよ。1回でいいのよ。」と、またヨットの設計家で、堀江謙一さんのマーメイド号を設計した横山晃先生からは「ヨットは趣味にしなさい。まず、生活基盤を作り、趣味としてヨットのデザインをしなさい。ヨットで生計を立てることはアメリカでも難しい。これからも、冒険の機会は訪れる。」と諭され、私は建設会社に就職し、建築家を目指しました。 それでも、海への冒険の夢をなかなか捨て切れず、28歳の頃、単独太平洋横断や単独世界一周のためのヨットやボートの図面を書き、材料まで購入しましたが、次の第一歩を踏み出す自分自身への大義を見出すことができませんでした。冒険を実行に移すには、命を懸ける自分自身への強い意欲と大義名分が必要ですが、その域まで達することができませんでした。今も図面は、事務所の私の部屋に飾ってあり、「いずれ必ず」と、夢を未だ追っている自分がいます。 [...]